1月17日です。
寒い日が続きます、とはいえ平年並みだそうで、これまでが暖冬だったんだなと痛感しています。
気温が低いと接着剤の硬化に難があるので暖冬なのはいいのですが、兵庫県のスキー場はどこもフル稼働とはいかないようです。
なかなかみんながいいということは難しいものだなと思います、なんでもね。
さて1月17日です。
今年は阪神淡路の震災から29年だそうで、ずいぶん経ったんだなと感じます。
もう神戸の街を歩いていて震災の痕跡を見かけることは地震の時に止まったままの時計があるくらいです。
大阪や京都や関西の他の主要駅の再開発に震災が理由で遅れていた神戸も、数年前からようやく計画が動き出して中心部ではいろんなところで長い工事が始まっています。
知っている街がなくなって、どこにでもあるよそ行きの顔になるのは素直に歓迎はできないけど、活気が出るなら商売をしている身からすればいいことではあるので複雑な心境ですが、良しとしましょう。
元日に起きた能登の地震は僕の震災の記憶を蘇らせるには十分な出来事でした。
テレビで見る輪島の風景は既視感があったし、東日本の時にはなかった「同じだ」という感覚が何故だかある。
神戸の震災の時は西宮に住んでいてかなり揺れたのを覚えています。
小学生だったので当然まだ寝ていて、でも揺れで目をさまして、でもなにもできずに布団に潜っていました。
枕元に置いていたコロコロコミックが落ちてきて「痛っ」なんて思いながらも揺れが収まると呑気に二度寝していました。
被害が大きい地域ではなかったので普通にいつもの時間に起きて学校に行こうとして集団登校の集合場所に行くと誰かの親が休校だと知らせに来て、突然の休みにこれまた呑気に喜んでいました。
それからテレビで流れてくる映像を見て事の重大さに気づいた、という震災当日の記憶です。
地震から1ヶ月ほどは市役所で勤めていた父親の顔を見ていないように思うし、仮設住宅が近くに作られてからは転入生が100人ほど増えたような記憶もある。
子供は呑気だったけど大人は大変だったんだろう。
神戸で一番山側を走る阪急電車は地震から一週間ほどで復旧したそうで、それで移動できるようになって大阪まで食糧を買いに行けるようなったとか聞いています。
「電車で武庫川を越えると地震なんかなかったようないつもの風景だった」という話も覚えています。
阪急の社会インフラだという気概が伝わる話だなと思います、いまでも台風なんかでJRが止まっても阪急電車は最後まで止まらない。
そんな阪急電車の高架下で家具を作っていますが、マジカルファニチャーの区画にかかる高架が6センチほどずれています。
「地震の時にずれた」と近所の人に聞いたことあるけど、本当かな。
だとすると地震のエネルギーの大きさを想像するにはいい教材として人知れず残っています。
大きな地震があると防災のことを考えますが、近所の人と仲良くしておくというのも一つの防災かなと思います。
被災すると助け合いは必須です。
持っているパンを半分渡すことができるか、それには重要な要素でしょう。
知らない人、嫌いな人には渡すのに躊躇するんじゃないかな、人間だもの。
神戸の街は綺麗になりました。
時間はかかるだろうけど能登も復興します。
自分のできること、マジカルファニチャーに来ている石川出身のヘルプ職人がいるのですが彼に寄付を託そうと思います。
頑張りましょう。